気が付かない方がマシっぽいこと

 

イラストが流れてくる。フォロイーがRTで流してくる。俗に "絵師" と呼ばれる人たちが描いたキャラクターのイラスト。

 

興味を引かれたら開く。ただなんとなく開いて眺める。ゑっ。

 

そこでたまに気を取られる。

 

 

デッサンが

 

 

俗に言う "デッサンが狂ってる" というアレだ。この言葉は専門家的に正しい用法とは言えないらしい(?)が、構図が写実的でない、という文脈でこれ以上に平易な言葉はない。

 

ともかくデッサンの狂った絵というのは、骨格や遠近性に歪みが生じていて、ひどいもの場合、節々をへし折り、そしてトルネードしたマネキンを魚眼カメラで撮影したかのようなイカれたプロポーションがあって、ひょっとすると、それは何らかの西洋美術を混合した新たなる動向なのかと疑うレベルだ。御パブロ・ピカソも天国で笑ってるよ。儂の屍とキュビズムを越えて行け。

 

 

それで、とくに最近になってからというもの、私の意識が絵のある箇所に吸われるようになった。陥ったと言うべきか。

 

その箇所とは、ズバリ "耳" だ。

誓って胸ではない。

 

数ある絵の中には、よく見ると耳のおかしなものが時折見受けられる。具体的には側頭部後方から生えている風であったり、あとは頬の脇から耳が生えているとしか思えない構図のものがある。しかし大抵の場合、髪の房などで付近が覆われていることから、その歪みに気が付く人は少ないのだが、耳先のはみ出し具合から逆算してみると、やはり生えている位置がおかしい。

 

ここで『絵じゃん』と言われたら話はそこで終わりだ。うるせえ黙れ。

 

私だってそんなところを見つけたくて見つけているわけじゃない。好きでそんなことをするのは、おおかたケチをつける材料を探しているトロールだけだ。人の細かい誤字脱字を目聡く見つけて意気揚々とケチ付けてくる🐙と同じ。そういえば以前、『未だに』を『今だに』と誤変換したらめっちゃ煽られてウザかったな。

 

それはともかく、耳なるファクターを一度気にしてしまったからにはもう戻れない。今やほとんど反射的に気にしてしまう。例えば、胸の小さい女性がつい同性の胸をチェックしてしまうように、ナンセンスと知りつつもそこへ勝手に目が引き寄せられてしまう*1。半ば無意識のチェック。この手の意識を消し去るのは容易なことじゃない。

 

いやいや、耳の生え方おかしいでしょ、この絵。

 

どうにも気になって仕方がない。超絶どうでもいいことと分かっていても気になる。何ならもうパラノイアってレベルだ。耳フェチじゃないのに耳が気になる。だっておかしい絵が多いんだもの。中には位置がおかしいのみならず、立ち耳すぎて直角レベルのものもある。もうそうなるとダメだ。遠目では端整に見える絵でも、一つの歪みを認めた途端に忽ち受け付けなくなる。この絵はなんで耳だけおかしいんだ。あと耳がデカすぎる絵も許せない。

 

ど゛う゛し゛て゛な゛ん゛だ゛よ゛お゛お゛ぉ゛お゛!゛!゛!゛

ん゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛!゛!゛!゛!゛

 

これもう一種の耳フェチか耳パラノイアじゃん。この際、"耳警察" というワードがしっくりくるかもしれない。既存の4つ耳警察とは似て非なるもの。

 

とまぁそんな具合で耳耳耳耳と、耳に親を殺されたかのような語らいをしてしまったが、別に私が気にしているのは耳の一点だけではなく、この数年間でデッサンの狂いというものを意識するようになってしまった。そして気付けるようになってもいる。これが良いことなのか悪いことなのかは分からない。でも自分では気が付かない方がマシだったと思っている。

 

時折、何らかの機会により、見覚えのある絵を見返すことがある。数年前までは何ら違和感を抱かなかった絵だ。すると、当時は気が付かなかった歪みに気が付く。遠近感(パース)の歪み、左右の不均等、関節の歪み、耳の生え方、顔パーツの配置、アタリの取り方、影の付き方、乳房の生え方、ニップルの位置・角度、いろいろおかしい。なぜ当時はこれを写実的だと受け入れていたのか、疑問にさえ思う。これプロの絵にしては普通にデッサン狂いまくってるじゃねーか、と

 

この気付きが良いことなのか悪いことなのかは分からない。ある経験を経た私は、その分野の知覚を微妙に拡張した。私は数年間で視野が広がった───洞察力が増したとも呼べるし、気が付かない方が面倒のない要素にいちいち気が付くようになってしまった、とも言える。この知覚の広がり、はたして要るのかだろうか。

 

これは対人関係にも言える話で、人はいちいち他人の粗など見つけない方が幸せに過ごせずはずだ。人は他人の良くない部分が見えるようになると、採点方式が減点式になりやすい。それでもって、減点式ってのはダメだ。どんどん悪くなる以外にない。相手が良い人という前提から出発して、都度その人の悪い部分を見つけてどんどん点数を引いていく。だったら悪い部分なんて見つけない方がマシだ。そうすれば、その相手は自分にとって良い人でいられる。きっと他人を洞察してはならない。肌のシミとか蒙古斑とかクチャラーなんて気付けてもいいことないだろ。

 

もっとも、こちらに損失を与えかねない類の悪癖は見抜くに越したことはなく、例えば害意や悪意を内在する相手のそれには気づきたい。まぁ都合の良い話だが。見たくない部分だけスルーしつつ悪性は看破したい、なんてそんな要求は通らない

 

 

ところで、『気が付くのが良いことなのか悪いことなのかは分からない』繋がりでひとつ思い出した。なんでも、人間は頭が良すぎても逆に不幸になるという話があって、偉い人曰く、考えすぎて残酷な真実を思い知ったり知能の高さゆえ孤独に陥るかららしい。もちろんパーソナリティにも依るだろう。(それはそう)

 

かのパスカルは、次のような言葉を残している。

 

人は物思いに耽ると、惨めさや不安にかられ不幸になる。

 

人間は皆、それらから気を紛らわせるために騒いだり、幸福をもたらす何らかを所有したがる。しかし結局、何をしようが人間は本質的に虚しい。

 

この世の虚しさを悟らない人は、その人自身がまさに虚しいのだ。

 

なまじ頭が切れると、考えなくても良いことや知らなくて良いことを知ってしまって不幸になる。例えばニヒリズムなんてのは、頭の良い人や裕福すぎる人に特有の病理だと思う。すべてが無意味と悟るのは虚しい。一方、動物的に刹那的に目先のことだけ見て生きてる人はそんなことなど考えないし、楽しくて忙しくて目が回るような毎日を過ごしている人や、ケーキの切れない非行少年に虚無感は生じない。

 

そういう意味ではやはり、知らない方がいいことや気が付かなくても良いことは往々にしてあるだろう。と考えると、私がデッサンの狂いに対する知覚能力を獲得したのは不幸なのかもしれない。だって、下手な絵や誤ってる絵をすばらしい絵として認識できた方が "おめでたく" いられるだろ。

 

人間性に深みは出せなくなるが、べつに感性は鈍くてもいい。

 

どうせなら不味い料理を美味しいと感じられた方が良いように、あるいはブサイクな人が自分を端整な容姿だと曲解するように、下手な絵を美術的に下手と知らず美麗だと思えた方が心に要らぬさざ波を立たせずに済む。センスが無為に肥えたところで役に立たない。少なくとも評論家の類でない限りは。

 

やはり "気が付かない方がマシなこと" というのは、何事に於いてもありうる。

 

*1:ちなみに、男性よりも女性の方が女性の胸を見ていることが実験で明らかになっている