人生100年時代、老後2,000万問題のトンデモ解方

人生100年時代、老後2000万問題のトンデモ解方

 

政府が『人生100年時代、老後に2,000万貯めなあかんで。年金制度は崩壊したからアテにするな。自助や自助』、と口にして炎上した老後2,000万円問題は記憶に新しい。まさか忘れた / 知らないなどとは言わないだろう。

 

これに関するかねてよりの自論がある。貯めたくなくばズバリ死ねば良い。老後に切り替わったタイミングで潔く死ぬのだ。細かいことは後述する。

 

老後を見越して2,000万円を用意するのが一筋縄ではないということであれば、あるいは老後などというみすぼらしい余生のためにせかせか貯金せなアカンのかと困惑するのであれば、そもそもその老後が到来しない前提で考える。

 

そしてもし、2,000万円を用意する老後世界線と用意しない死亡世界線があるとして、単純に考えれば後者のポケットマネーは2,000万もの額が浮く。老後を捨てれさえすれば、現役時代に2,000万円が自由に使えることになる。これはメルセデス・ベンツのSクラスが買えてしまうほどの額だ。

 

想像してみろ。エリートと言われる人達の人生を。

 

小学中学と塾通いをし、常に成績はトップクラス。有名中学、有名進学校、一流大学と、受験戦争に勝ってやっと一流企業に入っても、待っているのは出世競争。仕事第一と考え、上司に諂い、取引先におべっか。毎日律儀に会社に通い、残業をし、そんな生活を10年余り続けて、30代半ば40、そういう歳になってようやく蓄えられる金額が1000万2000万という金なんだ。

 

わかるか!

2000万は大金!大金なんだ!

 

───利根川幸雄

 

ゆきお...!!

 

 

人の一生とは基本的に将来への絶え間ない配慮であり、おおよそいかなる人であれ先々のことを考えて行動する。そして人は、得てして将来への恐れから現在を犠牲にする。未来に備えるためには今何かを我慢しなければならない。例えば、キャリアを積むために青春の欲望を犠牲にして勉強に浸るエリートなんかがまさにそれ。このように、人は将来への備えとして今を切り売りする。もっとも、中には刹那的快楽を求めて切り売りしない人もいるわけだが。

 

ところが、『あるタイミングで死ぬ』と決めていれば事情は変わってくる。予め時間的ゴールを決めておき、そのタイミングで自ら幕を下ろすというライフショートカットを、だ。

 

すると、そこから逆算してある程度自由にリソースを使うことができ、到来するかどうかも定かではない将来を憂いて今を犠牲にすることもない。また、ある一定の保険的な貯蓄を除き、わりかし日暮らし的な生活も可能だろう。将来へのケアを必要としない分だけ、現在に回すことができる。

 

 

老後はペシミスティック

老後

 

これはまぁ "人それぞれ" な感想があると理解した上で述べるが、老後とは悲惨そのものである。

 

というのも、昨今の『生産性のない人間は社会のお荷物』とする優性思想というか、価値創出至上主義とでも言うべきイデオロギーを内包した社会における高齢者は、事実として財源ないし家計を圧迫するだけのソーシャル穀潰しであり、若者らから恨まれながら余生を過ごすことになる。また今はコロナ禍根ということもあってか、余計にそのフォースを感じる。『年寄りのためになぜ俺らが今を犠牲にしなければならないのか』『年寄りは早く死んだ方がみんなのためだ』と。

 

令和現在で下の画像がバズるのだから、先細る未来において程度が悪化することは想像に難くない。

 

老人 若者 皮肉

 

場合によっては、実の子や孫や親戚から『金も手間もかかるからはよ死んでほしい』と内心で願われているかもしれない。というかそもそも、今でさえそんな家庭はごまんとあるのだから、将来さらに貧困化した日本社会ではそれが顕著になるだろう。

 

実際、私の親戚やいとこのところでも、排泄物垂れ流しのボケ介護老人が臨終して安堵している光景を何度か目撃するなどしたが、色々と感慨深かった。内心で死んでほしいと思われながら世話される余生ほど悲惨なものはない。これを死にぞこないと呼ばずして何と呼ぶ。

 

そして喜ぶべきか悲しむべきか、高齢者は健康寿命が伸びたせいで余計に死ななくなった。しぶとくなった。まるで "憎まれっ子世に憚る" を体現するかのごとく、ヘイトを買いながらリソースを吸い続ける。

 

ネットで有名な年金世代格差を表すメディア画像。この不公平感が高齢者ヘイトを加速させる。

 

年金 もらい得

 

後に生まれれば生まれるほどツケを払わされる。

 

 

こうなってくると、もはや老人は文字通りのお荷物であり、過去に姥捨てされていた時代のごとく、間引き対象の筆頭候補となる。

 

また、社会的なシニア世代の役割も終わりを告げた。

 

スマートフォンが普及した今となっては、わざわざ老人が若者に教えて(訓えて)やれることなどなく、先人の知恵なるものは廃れ、伝承や宗教的な話は科学的な観点から真っ先に否定され、年長者としての役割を何一つ果たすことはままならない。もはや年季は何の役にも立たない。

 

そして余計な押し付けや説教でもした日には、すぐさま老害扱いされ排除される。であれば、それこそ "若者に理解のある老人君" にならなければならない。

 

また若者や孫は、ボキャ貧の老人と話すくらいならスマホでゲームをしたり動画を見た方が楽しいと思うだろう。つまり、暇つぶしの相手としても不足している。子供すら老人を必要としない。こうして老人はソーシャル的な役割と意義のすべてを喪失する。昔ならともかく未来の老人は悲惨だ。何か特別な確変が起きない限りにおいて、老人は社会的存在意義を失ったまま、世代連鎖的に若者から目の敵扱いされ続けるだろう。

 

『お前らが日本を悪くした』『なぜ俺たちが税金でテメーらの飯を食わせなきゃならないんだ。はよ4ねや』

 

およそこれまで社会を支えてきた人間への仕打ちとは思えないが、これが現実である。メンタルを強く持ち、そして図太くなければ平気で生きられない。足手まといに申し訳なさを感じてしまう健常な精神性では持たないだろう。

 

このような環境に置かれた老人は、実存主義的な思想から己の余生へ主観的に意義を見出していく他ない。いずれにしても、他者評価をアテにしている人間ほど老後は辛くなる。なぜなら誰もが軽んじてくるからだ。したがって、自分の機嫌は自分で取ることが求められる。

 

自分の機嫌は自分で取る───左記は最近よく言われている安っぽい謳い文句だが、主張の内容は間違っていない。他人に気持ちよくしてもらおうとするな。精神的に自慰をしろ自慰を。キモチェ。

 

 

ところで身も蓋もない話だが、老後にいったい何しようって腹積もりなんだ。そんな長生きするほど予定が詰まっているのか。麻生もこんなことをこぼして物議を醸していた心覚えがある。

 

いや、言いたいことはわかる。今のうちからやりたいことがあるんだろう。憧れのアフターライフ。でもそれは現時点の話であって、いざ老後を迎えたときのメンタリティや環境的シチュエーションはその通りではなく、身体的および脳内物質的な要因で意欲は低下し、例に漏れず生ける屍のように惰性で生き、そしてぼんやりと死を待つケースも少なくはないだろう。大抵の老人はそのように見受けられる。漠然と老後を過ごし、そして漠然と死んでいくのが老人ではないのか。

 

人は病気や事故で苦痛とともに死ぬのが怖いから、いわば最終的な安楽死である寿命(老衰)が訪れる瞬間をぼんやりと待つ。死への恐怖により生を先延ばすことで、安らかな自然死にありつける。寿命は痛みのない受動的な終わりというご褒美。苦しまずに死ぬために何十年も老後を引き延ばし、いつか来る寿命を待ち続ける。まぁ寿命で死ねる保障は誰にもないが。

 

ならばその前に潔く死ぬ、というのも一理あるとは思わないだろうか。まぁこんな邪教は誰も許容しない。およそまともな人間の考えることではないからだ。

 

 

How to Die

では具体的にどうやって終わらせるのかという話だが、もっとも理想的なものは安楽死制度の導入。これにより好きなタイミングでこの世を去れる。

 

だが、現実的に安楽死は難しいだろう。諸々の理由で国家および政府は安楽死をヨシとしない。その理由の一つとして、私が言うような安楽死によるリタイアを望む衆が現れた場合に、社会的養分の働きアリがいなくなって困るからだ。

 

だから国家は安易な安楽死を絶対に認めない。認めたら国が滅ぶ。露悪的に言ってしまえば、国は奴隷をあの世へ逃がしたくない。資本主義の養分を。エスタブリッシュメントは積極的安楽死を絶対に認めない。

 

ときに、潜在的な安楽死希望者の実数は少なくないと囁かれており、『あわよくば死にたい』とうっすら考えているようなソフト希死念慮の民の場合、安楽死導入と聞けば喜んで死にに行くだろう。かくして安楽死施設は死のコンビニエンスストアと化す。

 

 

安楽死は高確率で無理と来た。ならばもう自殺しかない。凍京都のSuicide Wannabesだ。

 

もっともイージーなのは凍死。私のときは存外に楽だった。岡山の県北にある川の土手の下で、しこたま酒を飲んで寝ていたら死んでいた。

 

真冬の屋外で泥酔して眠りこければ、大抵の人はそのまま死ぬ。実際、屋内でも寝ている間に凍死してしまう人が後を絶たない現状があるくらいなのだから、凍死のハードルがどれほど低いのかが分かる。人は人が思うよりも簡単に凍死する。

 

しかし、凍死に至るまでには比較的長い時間を要する。万が一、死ぬまでに発見されてしまった場合、凍傷で壊死を負ったまま生き長らえるという一番しょうもない胸糞展開になる。自殺から救うのは自己満足のありがた迷惑だ。

 

ではどうするか。真冬の雪山に酒をたんまり持って侵入する。それも寝不足の状態で行く。そこで酔っぱらって意識を失えばもう終わりだ。低体温症と寝不足による疲労とアルコールのトリプルコンボで意識が遠のき、そして理解する間もなく死ぬ。それこそ眠ったように死ぬだろう。少なくとも、八甲田山で遭難した兵隊さん数百名よりは楽である。

 

そして冬が過ぎ、温暖となり雪が解け、動植物が活動し始めたあたりから身体は徐々に腐食し、あるいは野生動物に食べられて土に還る。やがて時間が経過することで、骨は土に埋もれていく。場所が場所なら死体は半永久的に見つからない。こうして行方不明者の失踪人として社会から消え去ることになる。一人の高齢者がある日忽然と姿を消した。*1

 

 

というのが一連の流れになる。

 

今回の話はアダルトビデオみたいなものだから、間違っても真に受けないこと。良い子はママに話して聞かせないように。

 

*1:ちなみにこの手の失踪は、結構な数が自殺と言われている